ASEANで活発化する国際労働移動─その効果と弊害を探る

調査部 上席主任研究員 岩崎 薫里


目   次
1.はじめに
2.国際労働移動の概要
(1)国際労働移動とは
(2)四つの特徴
(3)メリットと弊害
3.ASEANにおける国際労働移動
(1)高技能労働者の移動を志向
(2)実際は低技能労働者の移動が活発化
(3)経済成長と少子高齢化が促進
4.シンガポールの外国人労働者受入策
(1)世界的な受入大国
(2)低技能労働者を厳格管理
(3)高技能労働者を積極的に受け入れ
(4)受入姿勢に変化
5.タイの外国人労働者受入策
(1)周辺国から流入
(2)受入策を巡り試行錯誤
(3)実態に制度が後追い
6.マレーシアの外国人労働者受入策
(1)タイ以上に依存
(2)未登録者対策は道半ば
(3)制度の執行体制に問題
7.ASEAN経済への影響と日本への示唆
(1)低技能労働者の絞り込みが今後の課題
(2)日本への示唆
2 JR Iレビュー 2015
1.2015年末に発足するASEAN経済共同体(AEC)では、ASEAN域内

5.タイの外国人労働者受入策
(1)周辺国から流入
(2)受入策を巡り試行錯誤
(3)実態に制度が後追い

5.タイの外国人労働者受入策

(1)周辺国から流入

 タイでは、人口6,701万人に対して外国人はその5.6%に相当する372万人に上る(2013年、国連、前掲 図表1)。

このうちの96%(357万人)を、国境を接するミャンマー(189万人)、ラオス(93万人)、カ ンボジア(75万人)の出身者が占め、とりわけミャンマー人の多さが顕著である。

なお、これらの数は 正式ルートを経て入国した外国人のみのものであり、それとは別に、この3国の出身者を中心に不法入 国・不法滞在者が多数存在する。

したがって、未登録の外国人労働者も多く、タイ労働省は2014年央時 点でその数を200万人と見込んでいる(注37)。

これは登録外国人労働者数の230万人に匹敵する数であ り、この点を踏まえるとタイの外国人労働者の状況を正確に捉えるのは極めて困難であるといえよう。  

タイ在住の外国人のなかでCLM(カンボジア、ラオス、ミャンマー)の出身者が多いのは、国境付 近の住民が自由に往来してきたという歴史的な背景に加えて、労働力不足という

タイの雇用主側の事情 と、自国よりも豊かな国で働きたいというこれら3カ国の労働者側の事情が合致したためである。

ミャ ンマー出身者に関しては、軍事政権時代に少数民族が弾圧を避けてタイに逃れたという経緯もある。

 タイ政府は明示的には外国人労働者を技能に応じて区別していない。タイで外国人が就労するのに必 要な労働許可証(Work Permit)には職種、技能レベル、賃金水準などによる

分類はなく、この点はシ ンガポールや後述のマレーシアと大きく異なる。

国際移住機関(IOM)の集計データによると、タイ 在住の外国人労働者のうち、専門職・高技能労働者・中技能労働者の割合は合計しても3%にすぎず、 残り97%は低技能

労働者である(図表20)。

低技能労働者を主体とするCLMの出身者が外国人の96%を 占める点を踏まえると妥当な水準であろう。なお、専門職・高/中技能の外国人労働者のなかではタイに進出した

日本企業の多さを反映して日本人が最も多く、その職種は「上級職、管理職」がほとんどを 占める。

そのほかイギリス、中国、インド、フィリピンなどの出身者も比較的多い(注38)。

 低技能外国人労働者は主に労働集約産業で就労しており、農業、建設業、水産加工業、家事労働の分 野で多い(図表21)。

また、沿岸漁業、水産加工業、縫製業は彼らに大きく依存している(注39)。

2014 年夏に、軍事政権がタイ在住の未登録カンボジア人労働者を逮捕・強制送還するとの噂が広がり、10万 ASEANで活発化する国際労働移動─その効果と弊害を探る

JR Iレビュー 2015 21 人を超える帰国ラッシュが生じた(注40)。

その際、農業および建設業で突然の労働力不足に見舞われ、 この両分野でのカンボジア人労働者への依存度の高さが改めてクローズアップされた(注41)。

(2)受入策を巡り試行錯誤  

タイ政府にとって外国人労働者は、自国の安全を脅かしかねない存在である。

これは、外国人労働者 問題を取り扱う主要な政府組織の一つが国家安全保障会議である点からも窺い知ることができる(注 42)。

したがって、タイの外国人労働者受入策は、外国人労働者、なかでもその主体となっている低技 能労働者の受け入れをどう制御するかに終始してきた。

 タイでは、外国人労働者の本格的な流入が始まる以前の1978年に制定された外国人雇用法により、低 技能の外国人労働者の受け入れは原則として認められていなかった。

自国の安全に対する脅威に加えて、 自国民の就労機会が奪われることへの懸念による。

しかし、生活・教育水準の向上および少子高齢化の 進展に伴い、低技能労働の担い手を確保することが難しくなるなかで、労働集約産業を中心に外国人労 働者に対する需要が

次第に高まっていった。

このため、雇用主がCLMからの不法入国・不法滞在者を 雇用するようになり、それが逆に不法入国のインセンティブとなって、タイ国内の不法入国・不法滞在 者の数が

膨張する事態を惹起した。

 そこでタイ政府は、低技能外国人労働者の受け入れについて、すでに入国している不法滞在者に対し て就労を一時的に許可するというスタンスに転換した。

不法滞在者という法的地位を変えないまま彼ら を登録し、1年間ないし2年間合法的に就労を許可する制度を1992年以降、段階的に導入した(注43)。

すでにタイ国内に在住しているCLM出身者のみを対象とし、新規の入国については引き続き認めなかった。

 もっとも、登録・労働許可付与の手続きは煩雑かつ高コストであった(注44)。その一方で、労働者 はこの制度の下でも不法滞在者という不安定な法的地位に甘んじる必要があり、

滞在可能期間も1〜2 (図表20)

タイにおける外国人労働者数 (2012年6月、国際移住機関集計) (人、%) 人 数 割 合 外国人労働者全体 3,137,136 100.0 専門職、高技能労働者、中技能労働者

89,829 2.9 労働許可証を保有する外国人(注1) 83,419 2.7 外交官等 6,410 0.2 その他登録外国人労働者 513,792 16.4 未登録外国人労働者(期限切れビザ所有者)

65,558 2.1 ミャンマー、カンボジア、ラオス出身者 2,467,957 78.7 二国間覚書(MoU)による労働者(注2) 90,899 2.9 国籍証明手続き完了者、開始者(注3)

932,255 29.7 国籍証明手続き未了者 1,444,803 46.1

(資料)Huguet, Jerry, Aphichat Chamratrithirong and Claudia Natali, “Thailand at the Crossroads: Challenges and Opportunities in Leveraging Migration for Development”,

International Organization for Migration, Migration Policy Institute, Issue in Brief, Issue No.6, October 2012 (注1)2012年6月時点。 (注2)2012年3月時点。

(注3)2012年3月時点。 0 50 100 150 200 250 ラオス カンボジア ミャンマー 衣 料 関 連 食 品 販 売 漁 業 農 産 加 工 家 事 労 働 水 産 加 工 建 設 業 農 業

(図表21)タイの業種別・出身国別労働者数 (2009年12月) (千人) (資料)IOM Thailand, “Thailand Migration Report 2011”, 2011 22

 JR Iレビュー 2015 年と短かった。取り締まりが不十分であり、登録しなくても雇用主・労働者双方が課されるペナルティ は実質的にさほど大きくなかったことも加わり、

登録・労働許可付与はタイ政府の見込み通りには広がらなかった。
 
このため、タイ政府は2003年に制度を大幅に変更した。合法的に滞在する外国人にのみ低技能労働へ の従事を認めるというものであり、

@ タイ国内に在住する不法滞在の外国人労働者を合法化する(注 45)

A 、これに従わない不法滞在者の取り締まりを強化する、


B  二国間の覚書(Memorandum of Understanding、MoU)を通じてCLMから新規労働者を合法的に受け入れる(注46)、
C
の三つを通じて 実現しようとした。

また、従来はあくまでも特例として認めていたCLMからの低技能労働者の受け入 れを法制化した(注47)。  この制度のもとでも、当初は円滑な運用からは程遠かった。

それ以前の制度と同様に、手続きが煩雑 で高コストであったことによる(注48)。その後、手続きの簡素化および低コスト化が進むなど(注49)、 改善はみられる。

もっとも、MoUを通じた新規の外国人労働者の受け入れは、やはり手続きの煩雑さ と高コスト(注50)がネックとなって順調とはいえない。

前述の通り未登録外国人労働者がいまだ推定 で200万人おり、合法的に滞在する外国人にのみ低技能労働への従事を認めるというタイ政府の狙いは 依然として

道半ばであるといえよう。

(3)実態に制度が後追い  

タイにおける低技能労働者の受け入れの経緯を振り返ると、以下のような問題があったといえる。

 まず、現実が先行し、それに制度が容易に追いつけなかった。

低技能外国人労働者へのニーズが高ま ったにもかかわらず、タイ政府は彼らを受け入れないという原則を堅持する一方、そのための徹底した対策はとらなかった。

これが不法入国・不法滞在者の膨張を招来し、結局は原則を変えて新たな制度を 作らざるを得なくなった。
 
ところが、後追いして作った新たな制度がやはり現実に即していなかったため、実効性が低かった。

1992年に導入された登録・労働許可付与制度では、未登録外国人労働者を登録させるためのアメとムチ が用意されていたものの、彼らにとってはアメを得るために要する

コストの割にアメ自体の魅力が乏しく、かつムチの機能が弱かった。

2003年に導入された合法化の制度も、当初は同様の問題を抱えていた。
 
また、一連の政策においてタイ政府は、低技能外国人労働者の滞在をあくまでも短期間にとどめたい との意向を有してきたにもかかわらず、実際には長期滞在を許して

しまっている。

労働者側に長期滞在 へのニーズが強いうえ、雇用主側も彼らを長期間雇用したいというニーズが強いこと、さらには長期滞在に対する取り締まりが不十分であることによる。
 
タイ政府によるこうした低技能外国人労働者受入策の問題点は、未登録外国人労働者の多さにつながり、政府による外国人労働者の実態把握と適切な管理を困難にしている。

そのうえ、不法入国・不法滞 在を手助けする斡旋業者を中心に一大ブラック・マーケットが形成され、未登録外国人労働者の常態化 を助長する一方で、深刻な人権侵害を

招来している。

未登録外国人労働者は立場の弱さから賃金の未払 い、強制労働、暴力、劣悪な労働環境に甘んじざるを得ず、このことは国際機関や人権擁護団体からも しばしば指摘されている。

ASEANで活発化する国際労働移動─その効果と弊害を探る JR Iレビュー 2015 23  なお、国民の間でも外国人労働者の多 さが問題視されている。

ILOが行ったア ンケート調査結果(2011年)によると、 「政府は外国人受入政策をより厳格化す べき」との回答は89%に上った(図表 22)。

「外国人労働者は特定産業での労働 力不足に対応するために必要」との回答 が55%と、彼らの存在意義を認める人が 半数を若干上回ったものの、「外国人は タイ国内での

犯罪率が高い」との回答が 78%となるなど負の側面も着目され、 「外国人労働者はトータルでみて経済に 貢献している」は40%にとどまった。

(注37)Thai PBS English News,“Two million foreign workers illegally work in Thailand”, June 19, 2014.(http://englishnews. thaipbs.or.th/two-million-foreign-workers-

illegally-work-thailand) (注38)IOM Thailand[2011]p.10. (注39)Kaur[2009]p.293. (注40)

2014年5月のクーデターで誕生した軍事政権の要人が、未登録外国人労働者の取り締まりを強化すると発言したり、実際に も取り締まりを行ったりしたことから、

こうした噂が広がった。 (注41)“Exodus hits Thai agriculture, construction sectors”, The Nation, Asia News Network, June 19, 2014(http://www.asianewsnet.net/ Exodus-

hits-Thai-agriculture-construction-sectors-61478.html). (注42)World Bank[2013]p.138. (注43)

閣議決定があれば低技能労働者を例外的に認めることが可能という規定を活用し、1992年に、国境に隣接する10の県の在住 ミャンマー人を一時滞在者として登録し短期の

労働許可を付与することが閣議決定された。

それを皮切りに、対象となる地域、 業種、職種を拡大しながら付与が繰り返された。 (注44)

後に無料となったものの、制度開始当初は手続きのために雇用主が労働者の約1カ月分の給与に相当する手数料を支払う必 要があり、雇用主はそれを労働者の給与から

差し引いていた(Martin[2007]p.3)。

また、申請期間が通常30日間と短く、雇 用主も申請のタイミングを逃しがちであった(Hall[2011]p.18)。 (注45)

タイ国内で一時滞在者として登録し労働許可を付与された外国人が、出身国政府から国籍証明と渡航文書を取得し、そのう えでタイ政府から査証に加えて改めて労働許可を

付与されるというプロセスを通じて行われている。

出身国政府による国籍証 明と渡航文書の交付は、CLMそれぞれの国との二国間の覚書(MoU)に基づいている。

2002年にラオスと、2003年にはミャ ンマーおよびカンボジアとMoUが締結された。 (注46)

MoUでは、労働者の雇用条件や雇用期間などを明示する、雇用契約終了後に労働者が確実に出身国に帰国するよう両国政 府が協力するなど、労働者の渡航および帰国の

ルールやタイでの労働者保護が定められた。 (注47)2008年外国人雇用法で法制化された。 (注48)

取得手続きが完了するまでに13段階を経る必要がある(Natali[2013]p.180)など、きわめて煩雑であった。

手続きできる のも、すでに一時滞在者として登録し労働許可を付与された者のみであった。

また、カンボジアおよびラオスの出身者は渡航 文書をタイ国内で受け取ることができたものの、ミャンマーの出身者は当初、渡航文書を受け取るためにミャンマーに戻る

必要があり、それがミャンマー出身者にとっては大きなハードルとなった。

国籍証明の申請期限は2010年2月未に設定されたも のの、期限は何度も延長され、期限到来後は新規に申請期間が設けられた。

国籍証明の取得の前提となる一時滞在者としての 登録・労働許可手続きについても、期限到来後に改めて新規に申請期間が設けられるなどして今日に至っている。 (注49)

例えば、ミャンマー人も渡航文書の受け取りがタイ国内でも可能になった。 (注50)

例えば、MoUを通じてカンボジア人がタイに入国するためには350〜500ドルを要するのに対して、密入国は85ドル程度で 済む(Martin[2007], p.6)。

(出典:https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/jrireview/pdf/8089.pdf