西野順治郎氏の自叙伝―その2

     

    1951年(昭和26年)4月から、私は中央区本町(昭和通り)のあった、東綿と呼ばれていた東洋綿花株式会社東京支店渉外部に勤務することになった。

    東綿は1921年(大正10年)に三井物産の綿花部が独立して綿花と繊維を扱う商社となったもので、戦後三井物産が占領軍命令で解体させられた時、旧三井物産の他部門のスタッフを吸収して

    綜合商社になったものである。

    渉外部の任務は、官庁やバイヤーとの渉外事務を担当するものであったが、この間に一度だけ、しかも私にとって最初の貿易事務を担当した。

    それは当時、姫路商工会議所会頭であった、龍田紡績の龍田社長から香川さんを通じ、姫路動物園にタイから象を含め、熱帯魚を輸入して欲しいと頼まれた。

    これに答えるため、私はドシット動物園長をしていたチャロームさんに連絡してQUOTATIONを貰いL/Cを開設して32種類の動物を輸入した。

    これは占領軍管理下の暗い時代のことであったので、姫路市民から喜ばれ、その年の秋、姫路城下で行われた動物園開園式に招待された。 戦後の日本は食糧難に直面し、大量の米や穀物を

    各国から輸入せねばならなかった。

    そして貿易商社は食糧庁の代理として、これらの輸入業務を代行したが、この仕事は当時の貿易において大きなSHAREを占めていた。

    そしてタイからも大量の米を買っていたが、商社にとってはその輸入代行業者に指名されることは大きな商権の確保であった。

    そのために各社は通産省や食糧庁に日参して指名獲得運動を展開していた。そして最終的にタイ米輸入代行商社として東綿を含む6社(三井、三菱、三菱系2社と東綿、又一)が指名された。

    1952年2月、この指名を受けると同時に私はタイへ駐在員として長期出張を命ぜられた。

    この時、バンコクで生まれた長女清美はお茶の水大学付属小学校一年生になっていたので、家族を残して単身赴任した。

    1952年3月で当時は未だ被占領国日本には航空機を持つことが認めて居らず、香港経由のKLMのプロペラ機で羽田空港を発った。

    駐在員時代 1951年に日本政府の在外事務所の設置が認められると同時に、商社の派遣員の海外駐在も認められるようになり、バンコクにも既に数社の派遣員がきていた。

    東綿も繊維部門出身の管 輝雄(戦時中バンコク支店勤務)が6カ月前から駐在していたが、私と交代に帰国した。私はスリオン路にあったメトロポール・ホテルに落ち着き、事務所兼宿舎とした。

    ここは現在モンティヤン・ホテルのある場所だが当時は普通の民家を改造したもので部屋は10室程しかなく、他商社の駐在員も2,3名いた。

    その頃はどこも一社一名の駐在員しかいなかったので、皆親しく交際していた。しかし、仕事に関しては互いにCOMPETITORであったので商売獲得にはしのぎを削っていた。

    未だTELEXやFAXのない時代で電報だけが唯一の通信方法であった。毎日各営業部門から出された電報は夜届くので、翌朝それを持って得意先を訪ねて回る。

    夕刻ホテルに帰り、夕食後、昼の交渉結果を返事として電報を作成する。それを中央郵便局へ出しに行くのが大抵や夜半近くになる。

    このようなパターンは,各社駐在員とも同じようで毎晩 バンコク支店再開とヴェンチャン出張所設置 私は幅広い営業活動するために、終戦と共に閉鎖したバンコク支店を早期に再開するよう

    本社に提言してきたが漸くその機熟し、1953年くれに初代支店長として塩沢 定雄(後に専務取締役)が松岡財務駐在員と共に着任し、翌1954年1月1日を期しヤワラード街のUNION BANK OF

    BANGKOK 本店の二階に日本商社として戦後最初のバンコク支店を開設した。

    この時、私は支店長代理に任ぜられ、輸出担当以外に支店長の補佐役も勤めた。1959年に内地の穀肥部油量課長の席が空くので帰国しないかとの話がきたが、時の宇敷 正章支店長(後に

    取締役)に請われてそのままタイに留まった。

    これが私をしてタイに長期滞在せしめる契機となったのである。 これより先、1955年7月に私は日本政府による官民合同ミッションの一員としてラオスを訪問した。

    同国は1949年に独立してから米国政府はUSOM(UNITED STATE OVERSEAS MISSION)を通じ、その経済発展を援助してきたが、米国の民間人がこれにFOLLOWしなかったので、在タイ米国

    大使館より日本人大使館に日本の民間経済人を派遣して欲しいとの要請があった。

    これに対し、現地日本人大使館は青木 盛夫参事官(後にジュネーブ国際機関大使)を団長として式田 敬商務書記官と民間から、私の他に第一物産(後の三井物産)駒井 長一郎支店長、

    東西交易(後の三菱商事)斉藤 得七支店長及びPACIFIC & ORIENT社のコタに亀太郎社長の四名がラオスの主都ヴィエンチャンを始め王都ルアンプラバン、スワンナートを訪ねた。

    当時のラオスは非常に開発が遅れており、ホテルらしいホテルもなかったので私たち一行は出来たばかりのUSOM職員の宿舎に泊めて貰った。

    一方、USOMの職員でも空港周辺にテントを張りランプの灯で露営している人たちもいた。私たちは、ラオスの官民から大歓迎を受け、同国への進出を要請された。

    従って、私たちはバンコクに戻ると直ちに本社の許可を得て、単身でラオスに引き返し、当初は「連華」という得意先の店の二階で店員の部屋に泊めて貰い出張所設置の準備を開始した。

    そして、1955年10月には正式にヴィエンチャン出張所が認可され、初代所長として本社から三田 広仲氏が着任し、バンコク支店の管下におかれた。

    この頃はラオスではあらゆる物資が枯渇していたのでUSOM援助資金の輸入外貨枠を貰えばどんな品物を持ち込んでも全て充分な利益を確保することが出来た。

    それと、ヴィエンチャン出張所は優秀な業績を挙げ、社長表彰を受けた。このことに気付いた多くの他商社もラオスへ進出が見え出したので、大使館では狭い市場で適当競争の末、共倒れになる

    ことを懸念し行政指導に乗り出した。

    その結果、東綿だけは先発と言うことで単独で存続を認められたが、後発の14商社は1社となり「日寮貿易株式会社」(後日、三井物産が一社で、その経営を引き受けることになる)とされた。

    タイ国営紡績工場建設とタイ東レの設立 従来、タイ国防省軍工業局管下でピサヌロークに老朽織機200台程抱えた軍服工場があったが、政府はここに紡績20.000 、織機200台、染色仕上げ

    設備をもつ新式の一貫工場に増設改修する計画をたてた。

    しかし、戦後の経済疲幣のため、充分な予算が得られず悩んでいた。そこで私は日本政府と連絡をとりながら、特別円利用を提案した。

    特別円とは戦時中にタイ駐留の日本軍がタイ政府から借りた軍費で日本政府は96億円の返済を約していた。

    私は両国政府と折衝してこの内、約25億円をこのプロジェクトに充てることの了承をえた。

    そして東綿は日本商社として最初のターンキィ(TURN KEY)契約を締結し、一貫工場の建設を完成した。

    この工場の完成により、私は次の通り会社から表彰を受けると共に、タイ政府から勲五等王冠勲章を授与された。

    表彰状 バンコク支店次長 西野 順治郎 右はタイ国国営紡績工場建設に関するプラント輸出において、引き合い開始当初よりタイ国政府との交渉にあたり高度の政治的配慮と工作により契約を

    せしめた。

    よってここに表彰する。 昭和42年3月1日 東洋綿花株式会社 取締役社長   香川 英史 表彰状 バンコク支店次長兼TTTM 西野 順治郎 右は去る8月20日タイ政府より勲五等王冠勲章を授与

    されたが、これは日泰両国の友好に貢献したのみならず当社の名声を内外に宜揚した功績は大でありここに表彰する 昭和42年10月10日 東洋綿花株式会社 取締役社長  香川 英史 (註)後日、

    あるひとから表彰状の高度政治的配慮と工作について裏金のことかと聞かれたが、これは特別円を利用したことで裏金ではないとこたえた。

    TTTMとは当時兼務で出向していたTHAI TIRAY TEXTILE MILL CO.LTD.の略である。

    (註)後日ある人から表彰状の高度の政治的配慮と工作について裏金のことかと聞かされたが、これは特別円を利用した裏金ではないと答えた。

    TTTMとは当時兼務で出向していたTHAI TORAY TEXTILE MILL CO.LTD.の略である。 従来、農業国であったタイは工業振興政策を打ち出し、既に1953年、ピブン内閣時代に投資奨励法を

    公布していたが、1958年にサリット元師が政権を握るやこの法律を一層強化し、その担当官庁として総理府直属のBOI(BOARD OF INVESTMENT)を設置した。

    この機に、私は東綿本社に対して綿紡績工場の設立を提案した。

    当時のタイ国の総人口は約2,000万人で、一人当たりの衣料消費量は9ヤード位であったので総消費量約1億8千ヤードの内、1億ヤード以上が日本から輸入される綿布であった。

    その上、東綿は戦時中バンコクで、THAI COTTON MILL錘の紡績工場を経営していた経験があるので私の提案は認められ、1962年BOIに対して30,000錘の綿紡績工場の設立を申請し、

    認可された。

    これに伴い内地の繊維部門では取引先である大手紡績会社にプロジェクトへの参加を勧誘した。

    しかし、当時のメーカー筋では未だ海外進出を考えて居らず、何処も時期尚早と言って参加に応じなかった。

    そこで私は当時東綿の社長になっていた香川さんと相談の上、この話を東レ株式会社(当時は東洋レーヨンと称した)森 広三郎社長を訪問した。

    森社長は戦時中バンコク三井物産の支店長をされており、香川さんも私も親交のあった仁である。

    東綿として、綿紡績設立計画を合繊紡に切り替える条件で合弁参加を依頼したところ、東レが参加することを承諾された。

    しかし、当初の規模としては紡績1万2千錘、織機4百台及び、それに見合う染色加工設備を持つこととし、出資比率は東レ60、東綿40で合意した。

    そして森社長より私に新会社の取締役総務部長になることを要請され香川社長も了承された。

    このようにしてTHAI TORAY TEXTILE MILL CO,LTD.(TTTM)が設立され、日系進出企業として最初にBOI LICESEを貰い1964年3月より操業を開始した。

    支店長からタイ・トーメン社社長に 1969年に東洋綿花株式会社はその名称が綜合商社に相応わしくないとの理由で、社名を株式会社トーメンと改めた。

    その翌年1月1日付で私はバンコク支店長に任命された。支店長に就任して第一に立てた方針は関連企業を多く設立することであった。

    従来、トーメンばかりでなく、各商社の店長は限られた自分の任期中の業績をあげることに重点を置き、実りの遅い長期計画に時間を費やすことを敬遠しがちであったが、私は将来商社が長くその

    商権を維時して行き延びるためには製造業者と合併の会社を持つことであると考えた。

    このような考えは各社とも内地の本社が持っており、現地支店長の尻を叩いて実現さす例が多かった。

    私の場合は自分の考えで本社を動かし、1975年8月、定年でタイ・トーメン社長から同社会長になる迄の間に次の通り関連の合併会社を設立した。

    1.SUKOSON MATSUDA MOTER INDUSTRY CO.LTD.(SMMI) マツダ自動車及びKAMOL SUKOSON社との合併

    2.SIAM AUTO PARTS CO.,LTD 萓場工業社の技術協力を得て、SIAM MOTER CO. と合併

    3.EASTERN CHEMICAL CO.,LTD. 日本合成アルコールと合併でアルコール製造

    4.THAI SUMICOM CO.LTD. 住友建設と合併の建設会社

    5.CHONVIRIYA STEEL CO.,LTD. 共栄製鋼と合併でSTEEL BAR製造

    6.BUSINESS PROMOION CO.,LTD. SAHVIRIYA STEEL CO.と合併の不動産会社

    7.THAI MIKASA CHEMICAL CO.,LTD. 三笠化学工業と合併で肥料製造

    8.UNION KANEBO SPNNING CO.,LTD. SAHA UNION/カネボウと合併でカタン糸製造 この他、日本航空と合併でホテル会社(現在のヒルトン・ホテルの地主も参加)及びNORTHROP AIRPORT

    CO.,LTD.を設立したが1972年のオイル・ショックのため解散した。

    1972年11月、外国人職業規制法が施行されたので、これに適合するようにバンコク支店を現地邦人タイ・トーメンに改組すると共に、タイ法人 TOMEN ENTERPRISE(BANGKOK)CO.,LTD.を設立し、

    両社の初代社長に就任した。

    又、アルコールを始め、化学品を扱うためタンク(THAI CHAMEL TERMAINAL CO.,LTD.)を建設した他、積極的に現地の優良企業に資本参加した。

    THAI AMERICAN TEXTILE, THAI MELON TEXTILE, THAI MELON POLYESTER などがあるが、トタン板製造のFAR EAST IRON WORK社への参加には内地の営業本部の同意が得られず、

    このため金属部門の商売は後の代まで伸び悩んだ。

    私はこの他、政府関係の大型プロジェクトの入札に積極的に参加し、数多くの仕事を獲得した。

    例えばバンコクの王宮近くに架けられたピンコラウ橋の時は公共事務局がタイで最初のPC(プレストレス・コンクリート)橋を考えているとの情報を察知し、当時デュクダック工法のライセンスを保持して

    いた住友建設に飛び込み協力方を申し入れた。

    しかし、その頃、住友建設では未だ海外で仕事をした経験がなかったので、トーメンの責任でやるなら技術協力だけはするとの回答であった。

    いずれにしても現地を見た上で決定願いたいと申し入れ、同社の野村 太郎取締役にタイへ出張してもらった。

    その結果、住友建設、大林組、トーメンの三社合併が成立し、26億円(日本政府から円借隷)で入札成功、長さ300メートル、6車線の橋を完成さすことができた。

    橋の完成と同時に住友建設とトーメンが合併で現地法人タイ住建株式会社の斉藤 武幸社長の要請で取締役として留任することになった。

    この他に次のような大型プロジェクトを獲注し完成させた。

    1.前田建設及び明電舎と組みウボンラッタナ・ダム、発電所及び送電線建設

    2.大林組と共同でナムプロム・ダム建設

    3.日本鋼管と合併でシイナカリン・ダムのペンストック及びラヨンの天然ガス分離施設(DU POINT CONTROL)完成

    4.富士通と組み電話公社向け長距離電話網の完成

    5.前田建設と組みバンコク空港第二滑走路建設及びヴィエンチャン空港滑走路拡張工事完成、

    この他、ラオスではナムグン・ダム及びタイ・ラオス間の送電線建設を行い、このためにラオス政府よりミリオン・エレファント勲章を授与された。

    前述の如く1972年10月にバンコク支店を閉鎖して、代わりに株式会社タイ・トー メン(資本金500万バーツ)を設立し初代社長になった。

    その翌1973年3月末の決算で 調節後の純益785万バーツ(この期の決算は全部門黒字)を挙げたのでタイ・トーメンを無 償で1,000万バーツ増資した。

    1975年8月で定年で58才になった時、会社から の要請でトーメン本社の参与嘱託及びタイ・トーメンの代表取締役会長として残り、1989年12月まで大型プロジェクトの計画遂行に参画し、

    更に相談役として1991年12月までトーメン最年長のスタッフとして残留した。

    この間、1982年に友人 KIAT WATTANAVEKIN氏がAMARIN PLAZA SHOPPING CENTERを建設するに際して日本から百貨店を招致して欲しいと請われたので、そごうの中島 福三副社長

    (戦時中に日本銀行よりバンコクの日本大使館に出向されていた知己)に連絡したところ社内を説得されて、そごうの海外第一号店としてバンコクへの進出を決定された。

    そして1984年12月のタイそごうの開店に際し、私も要請されて同社取締役に就任した。 又、前述のタマサート大学の同級生の一人であるロートヴィト・ぺレン氏がパートナーである法律事務所

    TILLEKE &GIBBINSより日本企業相手の仕事を手伝うよう依頼され、1983年1月よりは同事務所のSENIOR COUNSEL としてFULL TIME勤務で日本人の法律相談をしている。

    公人として社会奉仕 1960年に、時の宇敷支店長帰国に際して同氏が会員であったトンブリ・ロータリークラブに勧められて入会した。

    以来、ロータリーが要求する毎週の例会への出席については30余年間100パーセントみな出席を維持している。そして1962/63年 BHICHAI RATTAKUL君(後にタイ民主党総裁、副総理、又国際ロータリ

    ー理事)が会長の時に副会長に選ばれ、1981/82年には外国人として最初のクラブ会長に選ばれた。

    1968年には戦時中に日泰協会の理事であった。PHYA MAHAISAWAN(当時の大蔵大臣、戦後商業大臣)を動かして、この協会を泰日協会として復活し、PHYA MAHAISAWAN会長の下で

    初代幹事となり、1972年より1992年まで副会長となり、その後も理事として残っている。

    1968年1月よりタイ国日本人理事に選ばれ、1971年より1979年までその会長となり、現在は名誉会員に推されている。

    日本人会会長時代には貿易不高等の理由で激しい排日運動に遭ったが、鋭意タイ人と接し相互理解を深めることに努力し、深刻な事態の発生を食い止めた。

    その頃、バンコク日本人学校は無免許で開校しており、タイ政府から閉鎖を命ぜられる虞れがあったのを泰日協会名義で正式に私立学校としての許可を取り付けることに日本人大使館の協力も

    得て奔走し、ついに1949年タイ政府より正式の認可を得ることに成功した。

    そして1979年に日本人会会長を辞任すると同時に学校理事長(当時は運営委員長と呼称)に推挙され1992年まで勤めた。

    この間、校舎の移転、新築、その後の増設を始め諸規定、規則の整備を行った。

    バンコク日本人商工会議所では1970年1月より1985年12月まで理事に選ばれ、そのご5年間顧問に推された。

    その間、繊維部会長、労務委員長、貿易委員長を勤めた。特に貿易委員長の5年は毎年タイの貿易院及び工業協会との貿易会議を持った他、タイ政府や大学等が主催するシンポジウムに

    スピーカーとして参加させられ両国の貿易不衡是正に尽力させられた。 これらの功績が認められ、次の通り通商産業大臣及び日本商工会議所会頭から表彰状及び感謝状を授与された。

    表彰状 西野 順次郎殿 あなたは多年にわたり発展途上地域の経済開発に努め、我が国の経済協力の推進に大きな貢献をされました。

     この功績は誠に顕著なものと認めます。 よって、その労をねぎらいここに表彰します。 昭和52年2月24日 通商産業大臣  田中 龍夫

    感謝状 あなたはバンコク日本人商工会議所役員として多年にわたり商工会議所の発展に力を尽くされました。 ここにその功労をたたえ感謝の意を表します。

    昭和60年9月19日 日本商工会議所会頭  五島 昇

    この他に1984年5月より1988年5月までタマサート大学東アジア研究所理事に任ぜられ、又同大学教養学部及びチュラロンコーン大学文学部の臨時講師も委簇嘱され奉仕した。

    これらの功績が認められ1983年12月5日、タイ国王のご誕生日にタイ政府より勲三等王冠勲章を、又1987年11月3日には日本政府より勲三等瑞宝章を授与された。 

    以上述べた公職は総て無報酬で、自分では満足できる奉仕が出来たと考えるが、一つだけ不快な事件があった。

    それは日本人学校移転に伴う土地取得に関し、誰が言い出したか判らないが黒い霧があったと言う噂が流れたことである。

    学校の現在敷地確保は泰日協会代表の学校理事DR.TANUSが地主を紹介したもので、私は当初数名の学校委員と共に現場(当時は青田の中)で会った。

    その時、1WAH当たり2,500バーツと言われたのを、2,400バーツにしてもらい、その場で権利書の写しの裏に値段を記入して、皆の前で地主にサインさせた。

    それから1週間後に地主から3,000バーツと言ってきたので、私は値上げするなら他の土地を物色すると言ったので、地主はしぶしぶ元の2,400バーツで契約に応じた。

    このようにして、現敷地を安く入手したのであり、私は地主に会ったのは最初に現場でと、2回目の契約時だけで登記の時は学校マネージャーと事務長が土地局に行ってくれたのであった。

    従って、本件に関しては、どこも不正が無かったと公言し得るものである。 著書 私は少年の頃より文学に興味を持ち、時々学校の機関誌などに小文を発表したりしていたが、その後日常の業務に

    追われ、そのような余裕が無くなってしまった。

    ところが1969/70年頃、タイ国日本人会の機関誌クルンテープの編集責任者に委嘱され、原稿が足りない時などには自分の戦時中の思い出などを書いて埋めていた。

    これらの文を読んだ時事通信社の今里記者は興味を示し、私に日タイかんけいの歴史について書くように勧めた。

    この勧告に従って書いたのが「日タイ四百年史」で初版は1972年5月に、そして1978年4月に新版を、1984年10月に増補新版を出すに至った。

    また、タイ女流作家トムヤンテイの名作「メナムの残照」は,著書より日本人に読んで貰いたいと依頼されて、余暇に翻訳したもので物語は戦時中タイに駐屯した日本軍人とタイの乙女との悲恋物語で

    戦時下の苦痛を描くと共に、日本軍人の立派な態度を賞賛している。

    初版は1978年8月角川書店より文庫本で出し、二版を重ねたが1987年12月に財団法人大同生命国際基金から恒久版をだして、全国の図書館や私の叙勲祝賀パーティーに来てくれた人々に

    配布した。

    従来翻訳小説は外国語に忠実に訳し過ぎ日本語としては読み辛いのが一般の常識であるが、私は外国語の構成そのものよりも、その意味を把握して日本語として書いたので、大勢の方々から

    非常に読みやすく、楽しく読んだと言う批評を頂いた。

    ここに、その一例として外務省でインテリ文化人で知られている岡崎元駐タイ大使からの来状を次の通り紹介させて頂くことにした。 拝啓 「メナムの残照」読了致しました。

    なかなかの文芸作品と存じましたが、何よりも翻訳文の平明さ、わかり易さに感心致しました。

    今後ともタイ文化の日本紹介への御貢献を御期待申し上げます。

    岡崎 久彦 西野 順治郎 様

    交友関係について 私は人との交友には相手の気持ちを考えると共に、誠意を持って交際し、人から信頼されることをモットーとしているが、私の周辺のひとについて二、三人の例を挙げて人生の

    生き方を考えたい。

    その1 中学の同級生の中でM君は非常に秀才であった。旧制中学4年で旧制第一高等学校に入学し、東京帝国大学(現東大)に進んだ。

    卒業して50年後に同窓会に初めて顔を出したが、ある一流商社で平社員のまま定年を迎えたとのこと、彼は学生時代ものすごい勉強家であったが、交友関係は良いとは言えず親友がいなかった。

    その2 外務省の後輩で給仕をしながら夜学に通い、試験をパスして外交官になったY君は余り仕事に関してABLEとは言えなかったが、その人となりや円満で人から好かれる人物で会ったので、

    最後は大使にまで昇進した。

    一方、もう一人の後輩A君は仕事は非常に良く出来、また勉強家であったが総領事で定年となった。

    この仁は意地悪い所があり、自分の仕事は人に教えることがなかった。

    その3 外務省時代に最も親しい友人の一人であったT君、旧制一高、東大から優秀な成績で外交官試験をパスし、将来は審議官、次官へと期待されていたが、惜しむらくは二流国以下の大使を

    三ヶ国勤めて終った。

    彼の欠点は、嫌だと思った人とは例え上司でも口を聞かないばかりでなく、挨拶も交わさなかった。

    T君について一つの逸話を紹介するが、占領軍から返還された敷地跡に外務省が庁舎を新築して戻った頃、彼は外務省会計課長であった。

    その時、彼は営繕担当官に命じて桜の苗木を入手して役所の正門前に植えた。この桜が今、綺麗な花を咲かせて外務省の入口を飾っている。

 

Copyright @ タイお困りごと相談所