新野 敬一さん 第一回  

タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第一回

     タイに行ってから、新野 敬一さんとお付き合いして30年になります。


    現在もお元気です。元ニチメンの副社長として活躍していました。


    今回、彼の歩んだ道を振り返り、私たちの進む指針としたい。小林 豊

    タイに生きて 〜歴史の証人たち〜  東南アジアと日本との関わりを語る上で今日でさえ、第二次世界大戦は決して、避けては

    通れない問題。

    ここタイで、戦争を生き抜いてきた日本人は、どのような軌跡を辿ってきたのか?終戦六十年を迎えた今、当時のありようを知る

    日本人の証言を聞き、その事実を浮き彫りにしていく。

     新野 敬一さん 第一回(合計6回)  名前:新野 敬一(しんの けいいち)


    生年月日:1929年2月22日


    出身地:バンコク


    「戦前のバンコク日本人社会で育った少年期」
     新野敬一さんは、昭和4年(1929年)2月22日、バンコクで生まれた。

    父、芳四郎さんは明治33年(1900年)博多の生まれ。

    新野さん曰く「明治生まれの頑固者」で、あまり自分の事を人に話さなかったので、どういう経緯か

    わからないが、最初はマレーシア(現在のシンガポール )に渡り歯医者をやっていた。

    そこで、ゴム園をやっていた親戚の手伝いをしていた母カヤノさんと知り合い、マレーシアで結婚。

    カヤノさんも同じく明治33年生まれ、長崎出身であった。

    その後、バンコクの日本人領事館にいたという友人を頼りにタイに夫婦で渡って来たのが昭和2年(1927年)のこと。

    ニューロード(チャルンクルン通り) の中央郵便局付近で歯科医院を開いた。

    両親がバンコクに移ったその2年後に敬一さんが生まれました。

    新野一家は両親と長男敬一さんの四つ下に充男さん、六つ下に郁子さん、八つ下に 昭子さんという

    六人家族であった。

     当時のニューロードには電車が走り、中央郵便局近くのスラウォン通りには当時で一番モダンであった

    トロカデロホテルがあった。

    まさに名の通り新しく、最も栄えていた町で、周辺には日本人も多く住み、日本人経営の店もあった。

    写真屋の波多野、洗濯屋の守屋、他にも床屋、茶碗屋等もあった。

    新野さんの父は「Dr.Y.Shinno」という看板を出した外国人向けの歯科医師であった。

    両親とも英語が出来たので「英語が通じる歯科医院」として有名になり、英語の出来るタイの政界財界人まで

    も訪れるようになった。

    新野さんは、小さかった頃、待合室にいるピブーン首相を見たのを覚えている。

    当時ではモダンな洋風建物であった四階建て長屋の一階が待合室、二階が診療室、三階、四階が

    住居だった。


    昭和10年(1935年)、六才になった新野さんは日本人学校に通うこととなった。

    学校はシープラヤ通りとスラウォン通りを結ぶソイ・サップ(現在のサップ通り)にあり、

    当時の日本人会『日本人倶楽部』と

    同じ敷地内にあった。 新野さんの家からソイ・サップまでは歩いて30分位で、近所の子供何人かと

    一緒に登校した。

    白の半そでシャツと半ズボンの制服を着て、校章の入った白いヘルメットを被り、タイにはない

    ランドセルを親がどこかから調達してきて皆それを 背負っていてた。

    日本と中国との戦争が始まると、中国人の子供から冷やかされたりもした。

     「スラウォン通りをそんな姿でずーっと歩いているとね、中国人の悪ガキどもが冷やかすんですよ。

    酷いことは無かったですけど、こっちは大日本帝国の教育を受けてますからね、『お前らチャンコロ、

    何言ってんだ』などと威張ってました。」

     当時の生徒は全部で25人程で、クラスは低学年と高学年に分かれていた。昼は学校で勉強し、

    家に戻って夕飯を食べて、

    夜はまた父と一緒に 日本人倶楽部に行くこともあった。

    仕事を終えて集まってきた日本人たちがビリヤードをしたり、飲みながら囲碁や将棋をするのを

    見たりした。


    昭和14年(1939年)前後、日本の軍艦や飛行機がバンコクにやって来た時には日本人学校の生徒

    みんなで歓迎しに行った。

    『日本号』という飛行機が世界一周をしていてタイに来た時には、紙で国旗を作ってドンムアン

    空港に出迎えに行った。

 

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