タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第二回

     

    「日本の教育を受けに、日本へ」

     昭和14年5月、小学校4年5月、小学校4年を終えた新野さんは日本に渡る。

    バンコクの日本人学校は小学校6年までしかなく、その上の教育を受けようという者は、いきなり日本の中学に入ると勉強の程度が違って

    大変であろうと、小学校4,5年で日本に行くのが通常であった。

    日本へは、その少し前からタイに来ていた母方の祖母と一緒に行くことになり、パタヤ近くのシーチャン島から日本の貨客船に乗り、香港、台南の

    キールン経由で10日程かかって横浜に入った。

    新野さんの落ち着き先は横浜浅間町に住んでいた母方の親戚の家で、子供のいない大工の棟梁をしている家庭だった。

     「今でも強烈に残っている日本の印象はヒノキのにおいですね。

    バンコクの我が家にもチークで作った湯船があったけど、チークはにおいがしないでしょ。

    日本のヒノキの湯船は本当にいいにおいがして、ああ、いいなって思いましたね。」

     親戚夫婦に可愛がられ、近所に友達も出来、日本での生活はさほど苦労することはなかった。

     「クラスでは最初『色の黒い変なのが来た』と言われることもありましたが、別にいじめられた覚えはありません。面白かったですよ。

    当時は、まだ家もそんなに、たてこんでなくて近所の友達とトンボとったり、山芋を掘りに行ったりしました。」

     小学5年で日本の学校に転校した新野さんは、幸い勉強の方はよくできた。

    バンコクの日本人学校では4年から6年までが同じクラスで授業を受けていたので、4年を終えていた新野さんにとって5年生の授業はどこかで聞いた

    ことのある内容で、「まだこんなことをやっているのか」という印象であった。

     気候の違いで風邪をこじらせ小児喘息になり学校を休んだりしたが、成績は常にトップクラスで、中学校も当時の県内優秀校である神奈川県立

    第一中学校に合格した。

     

 

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