タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第三回

     

 「日本での戦争体験」

 中学に入った年の昭和16年(1941年)12月、大東亜戦争が始まる。新野さんの元にもタイに日本軍が上陸したことなどが伝わっていた。

 「タイのことは特に心配はしてなかったですね。しょっちゅう手紙のやり取りをしていたし、品物も送ってきたりしていたから。」

 中学に入った頃、親戚夫婦は九州に帰ってしまい、新野さんは下宿をすることになり、何でも自分で決め、やっていた。

生活費や教育費はバンコクから送られてきてはいたが、進学先も「とにかく一番いいところに入れば文句はないだろう」と自分で決めた。

 県立第一中学校は質実剛健、厳しい学校だった。更に戦時下の軍事教練もあり、かなり鍛えられた。

 「学校には戦争経験がある配属将校がいて、威張ってましたね。鉄砲を担いで走らされたり、雨の中水溜りをほふく前進させられたり。大変な目にあいました。」

 中学校は当時5年間だったが、戦争が激しくなってきた昭和20年(1945年)、新野さんたちの学年は4年で切り上げ卒業となった。

新野さんは官立横浜工業専門学校(現在の横浜国立大学工学部、新野さんの卒業する年に改称)を受験し進学する。

 「受験は4年生と5年生と倍の人数だったんです。ただ、海軍兵学校へ行く連中もいました。

横浜には大学はなくて、東京は知らなかったから、横浜の工専が商専かだったんですけど、商業学校に行くとすぐ兵隊にもっていかれるわけですよ。

工業学校だと造船とか航空機とかの勉強をさせてもらえるので、そんなにすぐに兵隊にとられない。

それで横浜工専の建築を受験したんです。建築だったら戦争でぶっ壊れた建物なおすのにいいだろうって。」

 高専に進学したばかりの昭和20年5月29日。横浜は、大空襲に遭う。

 「あの日は忘れもしません。B29が500機も来て横浜の町が全部燃えた。

幸い相模原の兵器工場に学徒動員されていたんですが、『横浜が大変なことになっている』ということで急遽戻ったんです。

兵隊が乗っているトラックなんかをヒッチハイクして。

横浜に近づくと、まだ熱いんですよ、焼けてて。家の近くまで行ったら何もない焼け野原で、隣組の連中も散り散りバラバラになっちゃって。

幸い下宿のおじさん、おばさんには会えました。隣組十軒ぐらいのうち十数名が亡くなりました。

それをまた探しに行ったんです。

市内に入るとそこらに死体がゴロゴロしていて、それを乗り越えて、粘土細工みたいな焼けた死体をひっくり返したりなんだりして知り合いを探して。

粘土細工の焼死体よりもね、防火用水なんかに入って死んだ人のほうが可哀そうでしたね。

茹で上げられて死んじゃってますから、形やなんかはそのままなんです。でも可哀そうだ、なんだなんて言ってられなかった。

皆で手分けして誰それがいないって探したんです。でも簡単にはわかりゃしない、遺体の山でした。」

 その後焼けたトタンを引っ張り出して小屋を作って生活をしました。人間どうやっても生きていけるなって思いましたね。

家に戻って灰の中を探しましたけど、何にも残ってなかったんですよ、何にも。

 

 

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