タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第四回

終戦当時のタイの新野家

 終戦時、新野さんのタイの家族(両親、弟、妹2人)はバンブアトーン収容所に1年間抑留された後、タイ残留が決定する。

収容所に入る時には自動車、家財道具などの財産は全て没収され、現金は知り合いに預けたりしたが、それも一部は戻ってこなかった。

元の家には戻れず、結局知り合いのマレーシア人の持つ広大な敷地の中に一軒家を建ててもらいそこに家族で住んでいた。

 収容所を出た両親から日本にいる新野さんの元に、日本は物資に乏しいだろうと荷物を送ってきていた。

「ララ物資(*2)」という海外から援助物資を送る制度があり、そのルートを使ったらしかった。

砂糖、チョコレート、ビスケット、缶詰などの食料と洋服地なども送られてきた。

 「寮でしたから食べ物が届くとあっという間に皆に食べられちゃいましたね。

そういえば、当時サッカリンが日本ではすごく貴重品で、サッカリン1キロで土地が買えるなんて話がありました。

それで、バンコクの両親にサッカリンを送れと頼むんですけど、『体に悪いから』と砂糖や角砂糖を送ってくるんですよ。

それじゃぁ土地は買えない、別に甘いものが欲しいわけじゃないのに。

あの時サッカリンを1キロでも送ってもらってたら、渋谷あたりの土地が買えたんじゃないかと思うんですけど。

今となっては笑い話ですよね。」

 

 (*2)ララ物資

アメリカの宗教団体を中心に起こった慈善組織、海外事業運営篤志団アメリカ協議会が、昭和21年(1946年)に日本や朝鮮の救援事業を行うために

アジア救済公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia)を設置。

この頭文字(LARA)をとったものがララ。バター、缶詰、小麦、衣類、靴に至るまで様々な品が送られた。

昭和22年(1947年)から始まった学校給食もララ物資によるところが大きい。