タイに生きて歴史の証人たち 新野敬一さん 第五回

「戦後の混乱を日本で」

 昭和20年(1945年)8月15日、官立横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)の1年だった新野さんは、

敗戦を告げる玉韻放送を横浜の勤労働員先で聞いた。

最初は何を言っているのかわからず、皆に聞いて初めて日本が負けたとわかった。

その後1週間ほどは横浜にいたが、学校も閉鎖されたので父方の伯父のいる福岡へ行った。

 「とにかく着の身着のまま汽車に乗ったんです。汽車はものすごい混雑で窓から出入りしたり、ぶら下がったリする人もいました。

それでも何とか九州に向かって、その途中広島も通ったんですよ。

本当に見渡す限り何にも無い焼け野原でした。

駅の御影石に人の影が残っているのを見て、原爆が落ちたちょうどその時そこにいた人が、立ったたまま焼けてしまったか、

消えてなくなっちゃったんだなぁって思いました。」

 福岡には一ヶ月滞在した。

授業が再開されると、新野さんは横浜に戻った。学校が軍の施設を借りて寮を作り、焼け出されて家のない三十名程の学生がそこから学校に通った。

 戦後まもない頃の横浜は進駐軍で溢れていた。伊勢崎町近くには浮浪者、戦災孤児がいっぱいで、闇市が盛んだった。

食べ物は進駐軍の食堂から捨てたものをまた煮込んだもの等が売られていた。

タイからの送金が途絶えていた新野さんはアルバイトをして自分で学費、生活費を稼いだ。

 「戦争が激しくなってくるとタイからの手紙も届いたり届かなかったりで、金を送ったと手紙が来ても、銀行に行くと分らない。

まあ、最後に分かったんですけど、その時にはもう新円に切り替え(*1)で紙屑みたいになっちゃって、何の役にも立たなくて、

アルバイトの儲けのほうが良かったくらいでした。

アルバイトは港湾の沖仲仕、将校のハウスのボウイ、スピードくじ売りなんかをやりましたね。いい、儲けになりましたよ。」

 新野さんの生活の糧を稼いだ横浜からは、かの昭和の歌姫も誕生している。

「笠木シヅ子のブギウギを映画館の幕間で歌っている子供がいてね。

コマッシャクレた小さいのがよく歌うなぁと思ってたら美空ひばりだったんだよね。

昭和21、2年の頃じゃなかったかな。」

 (*1)新円切り替え


 進駐軍のインフラ対策として、昭和21年(1946年)2月17日に預金封鎖が実施された。

その後3月から旧紙幣は使用できなくなり、新円のみが流通することになったが、物価高騰は続いた。