タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第六回
占領下の日本からタイへ
昭和23年(1948年)、新野さんは横浜国立大学工学部建築科を卒業する。横浜大学の工学部といえば造船、航空機科が有名だったが、それらの学生は終戦となっては働き口がなかった。
一方、建築科の新野さんは戦後の復興補修工事の需要があり、建築会社に難なく就職した。
その数カ月後、アメリカ軍の工兵隊付け建築士として採用される。そこでは同級生が月給3000円くらいのところ、3倍くらいの給料であった。
仕事はアメリカ軍属が住む住宅やアメリカ軍が接収したビルの補修工事の工程管理だった。
そこに1年程いるうち、日本で生活するのは大変だろうというタイの家族からの呼びかけでタイに帰ることになった。
昭和24年(1949年)、敗戦国の日本はまだ連合軍配下であったため、新野さんが日本からタイへ帰るためには、GHQに申請し、旅券を発行してもらわねばならなかった。
タイにいる両親から招聘状とパンアメリカン航空の片道航空券を送ってもらい、それを持って東京大手町のマッカーサー司令部に行った。
12月31日の出発。前日は羽田空港近くの旅館に泊まり、朝は歩いて空港まで行った。当時、
飛行機に乗るのは軍関係の者しかおらず、一般客への案内などなく、何がどうなっているのかよく分からなかったという。
新野さんが乗ったパンナム機は香港経由でその日のうちにバンコクに入るはずだったが、香港が季節外れの台風に襲われ、着陸できずマニラに向かった。
新野さんは当時フィリピンで1番のマニラホテルに宿泊することになった。
「外貨を持っていなかったので、チップも払えない始末で情けなかったですね。
マニラではちょうどパッピーニューイヤーでワーワーやっていたけど、怖くて外に出られなかったんです、日本人だって分かったらどうされるかと思って。」
バンコクに着いたのは昭和25年(1950年)1月2日。
当時のドンムアン空港は格納庫を使っているような状況だった。
空港には航空会社と連絡を取って予定変更を確認していた家族が迎えに来ていた。