2015年2月3日

タイに生きて 〜歴史の証人たち〜新野 敬一さん 第七回 最終回

 

日タイの架け橋として

 タイに戻った新野さんは、十年間使っていなかったタイ語のカンを取り戻すべく、YMCAなどでタイ語を学んだ後、昭和26年(1951年)、サンフランシスコ

平和条約(*3)が調印されるのと時期を同じくして開設

された在バンコク在外事務所に現地採用される。翌年、同条約が発効されると、在外事務所は在タイ日本大使館に昇格した。

新野さんは領事部に在籍し、ビザ関係、逃亡兵調査、日本から来る要人の案内等の仕事をした。日本から来る要人の中にはボクサーもいて、戦後の

日本初のボクサー辰巳八郎の来タイ時の世話もした。

これが縁で、後に日本人キックボクサーの来タイ、タイ人ボクサーの渡日の世話をするプロモーターの仕事を弟充男さん(本業歯科医、1990年没)が

することになり、日本にキックボクシングブームの一旦を担った。

 新野さんは、終戦後8年間の休止を経て活動を再開しようとしていた日本人会の新規登記にも尽力した。当時のバンコクに日本人は百二、三十名程

滞在していた。

従来からあった「日本人クラブ」は日本が敗戦したので断続は認められず、新規に警察に登記しなくてはならなかった。登記が済んだのは昭和29年

(1954年)であった。

 昭和30年(1955年)、新野さんは日本に再度渡る。建築事務所に席を置き、一級建築士の資格を得る。

3,4年日本に滞在している間に結婚し、奥さんと一緒にタイに戻り、日タイ双方をよく知り、さらに建築士の資格を持つ新野さんでなければ出来ない仕事、

サコンナコンダム建設測量調査、日泰貿易会議通訳等をして行く。

 現在、新野さんは様々な会社の取締役、顧問、株主となっており、第一線の企業人として活躍している。

昨年より日本で騒がれいる耐震強度偽装建築問題に関しても「某建築士による偽装で、地震で倒壊の恐れのあるマンションやホテル等の高層ビルが

建設されたことは、同じ一級建築士として全く信じがたく、憤りを覚える」と述べている。

 (*3)サンフランシスコ平和条約


 昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ会議の最終日に、日本とソ連等を除く旧連合国48ヶ国との間に調印された講和条約。

昭和27年(1952年)4月28日発効。条約の発効によって、日本は連合国軍の占領下から独立を回復したが、領土問題やアメリカ軍の駐留などの

問題が残された。(終)