西野順治郎氏の自叙伝―その1
西野順治郎さんとは、来タイ後大変お世話になりました。生前、私に以下の原稿を渡してくれて、適当に保存して下さい、と言われました。
大切に保存して今日に至りました。偉大な業績をたたえて、私もがんばるエネルギーにしています。2015年1月12日
自叙伝
生い立ち
私は1917年(大正6年)8月9日、大阪生まれだ。
「故郷はどこですか」と聞かれると「大阪府です」と答えることにしている。
「大阪です」と言えばああ、あの贅六のボンボンかと思われるからである。
私の出生地は、およそ都会とは縁のない大阪府泉南群東信達村大字金熊寺844番地で、現在は泉南市信達金熊寺となっているが、昔とかわらぬ山間の60軒程の部落であることには変わりがない。
風吹峠と言う峠を越えると、和歌山県粉河町の根来寺である。 母キミは祖父母秀吉、ヨシの間に生まれた一人娘で、父利一郎は同じ部落野矢野家から来た婿である。
矢野家は、大阪冬の陣で討死した矢野家泉守正嗣の子孫である。
矢野和泉守正嗣は、豊臣家を救うため真田幸村と共に紀州九度山から大阪城に入る時、二人の息子を伴っていたが、弟の方が途中腹痛のため、この部落の床屋に預けられそのため討死を免れたので
ある。
西野、矢野両家とも山、畑、水田を持つ自作農かでその一部は小作人に耕作させていた。
西野家も床屋を勤めたことがある旧家で、母キミは大阪府立岸和田高等女学校(現在の泉南高等学校)第一回卒業生で村の小学校の教師をしていたが、当時不治の病と言われた肺結核にかかり、
私が3才の夏、1920年9月死去した。
母が高等女学校に通った頃は、冬の短い日など祖父に送られて暗いうちから提灯を持って4キロの道を南海電車の樽井駅まで歩いて行ったことがある。
母の面影として、微かな記憶にあるのは死の直前であったと思うが、開き放された奥座敷の寝室に入って行った時、母は「お母ちゃんが死んだらおばあちゃんと一緒に墓参りにきてね」と言われたのに
対して「ウン」と答えたように憶えている。
兄弟は姉,美奈保と兄、瞭太郎の三人であったが、姉も肺結核のため私が7才の時に若死にした。それ以来、私たち兄弟は祖母ヨシによって育てられた。
祖母は優しい人であったが、父利一郎は村で律義者で通った真面目で厳しい人物として知られていた。
徴兵検査を受けて深山重砲第4連隊に入営し、選ばれて横須賀の砲術学校に留学させられ、東京赤羽にあった砲兵工廠の研修を経て特務曹長まで昇進した。
日露戦争には曹長で参戦し、旅順港攻略線を勝利に導いた砲兵部隊の分隊長としての功績により功七級金鳥勲章をうけ授けられ、将来は将校に昇進を約束され軍隊に残る事を勧められたが、
このような勧誘には応ぜず任期満了と共に帰郷して農業に従事していた。
そして身をもって体験した戦争の苦痛を子供たちにさせたくないと強く考えていた。
そのため兄、瞭太郎は旧岸和田藩主岡部子爵からの特別賞を受けて府立岸和田中学校を首席で卒業し、担任教師からも旧制高等学校に進学するよう勧められ、本人も数学か物理学者になることを
望んでいたが許されず、天王寺師範学校(現大阪教育大学)に入学させられ小学校の教師となった。
当時小学校6年迄の教育を受けることは兵役と同様、国民に課せられた義務であったので、小学校の教師は6ヶ月間だけ短期現役として、軍隊入営し軍事訓練を受けるだけで以後の兵役は
免除されていた。
私達兄弟は東信達尋常小学校に学んだが、兄と6才違っていたので私だけが小学校に入った1924年(大正13年)に兄は岸和田中学校に入学した。
村の小学校は、私の生家から約300メートル南の山麓にあり部落と同名寺院、金熊寺と信達神社に隣接し寺や神社の境内が学校運動場であった。
全校児童数は130名(現在でも殆ど同数)、私のクラスは男子12名、女子11名の23名であった。教師は4名、その内ただひとりの女の教師は1年生担任、校長は6年、他の二人の教師は
4・5年と2・3年とをそれぞれ合同で担任していた。
家では祖母も農業を手伝っていたので小学校6年間を通じて家人がきてくれたのは祖母が一、二回学芸会を見に来ただけであった。
しかし、六年間を通じて殆ど皆勤で通学したのは学校が近かったためと、父に叱られるのが怖かったためである。
1930年(昭和5年)の春、私は兄の卒業と入れ違いに府立岸和田中学校に入学した。
入学式の当日、父は一緒に来てくれた。父が来てくれたのは中学5年間を通じてこの時だけであったが、その日、当時の落合 保校長より「質実剛健の校訓」に則り、毛織物を一切着用させないこと
(当時は合成繊維がなかったので毛織物は最も贅沢な防寒衣料であった)、こたつを使用して寝かさないように」との注意があった。
これに対して律儀者の父は、私が卒業するまでこのことを完全遵守実行させた。又、学校では体育の時間には冬でも夏と同じく半袖、半ズボンの木綿の運動着で運動場に立たされた。
このためか、私は冬に帰国しても寒いと感ずることもなく、又雨に打たれても風邪をひいたこともない。この点、学校当局と父に感謝している。
中学5年間の通学は4キロ、大阪湾岸にある樽井むらまで行き、そこから南海電車で30分を要した。帰路の自転車は上り坂であったので、家に帰ると疲れて横になることが多く、従って他の多くの生徒より
もハンディキャップを負わされていた。
父は私に対しても兄と同様、師範学校への進学を望んでいたが、父の口添えもあり次男であるため旧制高等学校への受験が許された。
そこで私は中学4年終了で、比較的競争率の低かった第三高等学校文科丙類(現京都大学教養学部)を選んで受験したところパスすることができた。
しかし、この喜びも束の間で、その二学期には退学させられる運命となった。
これより以前、兄は大学への進学を許されなかった不満のあるところに友人から誘われ労農運動に参加し、一時教職を退かれたこともあったが、その頃、兄が持っていた社会主義に関する書物を
読んだり、兄と共にエスペラント語講習会にも出ていたので、私も特高警察から要注意人物とみられていた。
たまたま軍事教練の教官と些細なことでトラブルを起こし、これが原因で放校処分を受けるに到ったので中学に戻り5年に編入して貰った。
横浜専門学校から外務省へ
この頃、私は少年時代に愛読した少年倶楽部の海外に関する小説、特に南 洋一郎という人の南方(当時はこの方面を南洋と言った)を舞台にしたものにあこがれていた。
その上、特高警察に睨まれてからは益々海外への夢を持つようになった。
そして横浜専門学校に貿易学科があるのを知ったのは12月に行われた同校給費生の入学試験が終わった後であった。
私は父にも相談せず、大阪大学医学部の校舎を借りて行われた同校の入学試験を受けた。
そして、1935年(昭和10年)春、中学卒業と同時に横浜へ旅立った。
当時の横浜専門(現神奈川大学)は創立後、日浅く新興の気分に溢れていたが学生は給費生試験に集まった秀才組と逆に他校の入試に失敗したグループとの混成であったが、教授陣は一流大学の
有名な教授を多数講師として招いていた。
従って真剣に勉強せんとする学生にとっては不足のない学園であった。
刑法の講義を自ら担当していた林 頼三郎校長(1936年検事総長から司法大臣となる)を始め、国際法の横田 喜三郎、経済学の中山 伊知郎、会計学の太田 哲三、商工経営の美濃部 亮吉、
産業能率の上野 陽一、商業数学の久武 雅夫、英語のエドワード・ガントレットら当時の一流教授陣に直接接することができた。
中でも学監の米田 吉盛(神奈川大学へ昇格後の初代学長)、倫理学の朝比奈 宗源(後に円覚寺管長)、VIVID ENGLISH の江本 茂夫(陸軍の語学将校)先生らには特に個人的指導を仰いだ。
米田先生には1985年死去されるまで終始ご指導頂いた。
朝比奈先生は1936年2月26日朝、一時間目の授業に鎌倉から高歯の下駄で来られ教壇に立つや直ちに「今朝、軍の暴徒が首相始め高官達を襲って暗殺したらしい。
こんなことを許していては日本は滅びてしまう」と言われた。これは未だ何の公表もない時に言われただけに深く印象に残っている。
そして翌3月の春休、私は朝比奈師の紹介状を頂いて興津の清見寺に古川 大航を訪ね、座禅を修行しながら外務省への試験勉強を開始した。
又、江本先生は日曜日などにESS(ENGLISH SPEAKING SOSIETY)の仲間を連れ出し近郊ハイキングしながら生きた英語を指導された。
先生はその後、戦時中に四国で捕虜収容所長をされたが、各地の収容所長が捕虜虐待の責で戦争犯罪人とされた時、先生だけが国際法を厳守して捕虜を待遇したため、戦後占領軍から賞賛された
のである。
横浜では一年間、宮面寮という寄宿舎にいた。すすきが茂る丘を隔てて南には捜真女学校が見えたが、現在はこの丘にも民家が密集し捜真の姿は見られない。
二年になってからは寮を出て大阪の市岡商業学校出身の柴田良策君(伊藤忠から東亜石油副社長となった)と上反町の丘の上にあった清水という元安田海上火災保険会社の重役未亡人宅に下宿した。
私は海外雄飛を目指して横浜に来たが寒村の農家出身で特に実業界にコネを持って居なかったので実力で受験できる国家公務員として外務省を受験することにした。
当時、外務省に入るには高等文官試験と留学生試験があったが前者は卒業後でないと受験資格が得られないので先ず留学生に挑戦してみることにした。
試験は両者とも語学と国際法が重視されていたのでこれらの科目を重点的に勉強した。
1937年4月に施行された試験には200名以上に応募者があり、東京、大阪、の両外国語学校(現外国語大学)出身者が最も多かった。
第一次試験で30名ほど残り、第二次の外国語会話を含む口頭試験をへて9名が採用された。横浜専門からは同級の岩瀬 幸君(後のニカラグア大使)も受験し二人とも合格した
。 岩瀬君はリスボンへ、私はバンコク留学を命ぜられ、同年7月7日、神戸出帆の日本郵船欧州航路のはるな丸で留学の途についた。
その朝、私はトランク一つ持って神戸港に向かった時、母代わりになって私を育ててくれた当時78才の祖母は村外れのバス終点まで送ってくれた。これが祖母ヨシとの永別となった。
兄は神戸港まで来てくれた。船は門司、上海、基隆、香港を経由して同月21日シンガポールに入港した。
私は大阪難波の高島屋で買った首釣(既成)の夏背広一着着たきりなので船内では幾らか恥ずかしい想いもしたが、若いグループの友人も出来て楽しい旅であった。
ローマに行く同期入省の下村 清君(後にイタリア大使)を始め、ベルギーに居られた来栖大使の長男、良君(当時横浜高等工業学生、後に戦死)、長尾横浜正金銀行からシンガポール支店長令嬢姉妹らは懐かしい人たちである。
シンガポールからバンコクへはただ一人で二日間の汽車の旅であったが、神戸出帆の日に北京郊外で起きた日中両軍の衝突事件が、益々拡大しつつあることを報ずる中国語の新聞を華僑が深刻な顔で
読んでいるのを見かけた。
7月24日昼過ぎ、国際列車はバンコク中央駅に到着した時には数名の公使館員が出迎えてくれた。この日から一週間、天田副領事(後、一等書記官領事)宅に泊めて貰い、それからバンコク北郊ドシット
公園の側にあるワチラウッド・カレッジの寮に入った。
ここはキングス・カレッジとも呼ばれて上流階級の子弟を全寮制で教育している。寮は広い構内の四隅にあり、私が入ったのは南東隅の寮で寮監は副校長のプラ・パタット・スンドラサーンで、この副校長
夫妻には家族の一員のように遇せられ、楽しい3年間を過ごすことが出来た。
当時、バンコク在留邦人は500人足らずであったが、外務省の方針に従いにほんじんは社会との殆ど接触なしに勉強を続けた。翌年6月から私はタマサート大学法学部に入学を許可された。
当時、大学はチュラロンコーンと二校しかなく、法学部はタマサートだけであった。私は、毎日ワチラウッドの寮でタイ語の勉強を続けながら、バスと路面電車を乗り継いで王宮近くの大学まで通った。
当時のタマサートは法、商の二学部だけで商学部にはブンチュー・ローチャナサチヤン(後に国会議員から副総理)がいたが、法学部の同級にはチンダー・ナソンクラー(後に人事院総裁)、ロートビット・ペレラー
(後に私が参加する法律事務所のパートナー)、ビィラ・ロムヤナート(後にバンコク銀行副頭取)、クンジン・カノク・サマセーン(女性、後に国会議員)らがいた。
私は1940年(昭和15年)9月、任官と同時に公使館内の官舎にうつったが大学は翌年3月まで卒業資格を貰った。
この時、タイはフランスの植民地であったインドシナとの間に国境紛争を起こし、その調停を日本に依頼するため、時のピブン内閣(ピブンソンクラム首相兼国防大臣)は,ルアン・プロームヨーティ国防副大臣一
行を日本に派遣した。
バンコク丸で渡日した一行が神戸入港の直前になって、私は通訳のため急遽一時帰国を命ぜられたので、開通したばかりの大日本航空会社の日タイ定期便乃木号で9月14日ドムアン空港を経ち、ハノイ、
台北でそれぞれ一泊、三日目に東京羽田空港に着いた。
この時、兄遼太郎は面会のため東京山王ホテルまで来てくれ、初めて祖母ヨシの死を知らされた。それは1937年9月、私がタイへ旅立った直後であったので、私を落胆させないために秘してたと告げられた。
東京から帰任して間もなく二見甚?公使が着任されたが単身で赴任されたので、私は秘書として公邸に一緒に住むことになった
。この間、タイと仏領インドシナとの国境戦争が激しくなり公使館も多忙を極めた。
1941年1月17日、タイ海軍の旗艦トンブリ号がフランスの巡洋艦に撃沈されたのを機に、日本は調停に入り停戦協定が成立した。私はこの後に出来た国境画定委員会に配属させられ、サイゴン(現ホーチミン市)に駐在した。
この間、バンコク、サイゴン間の舗装のない道路を自動車(当時は冷房がなかった)で走り回っている間に結膜炎を起こしたが大事には至らなかった。
この間4月1日には勝野 敏夫領事によるシンゴラ(現ソンクラ)領事館開館の応援に出かけ、また6月にはチェンマイ領事館開館準備のため同地にも出張した。
戦時下の公館勤務 1941年8月、私はサイゴンでチェンマイ勤務の辞令を受け取り、同9月に原田 忠一郎領事と共に同地に赴任した。
しかし、原田領事は11月初めから病気療養のためバンコクに出たままであったので私は領事代理として同地で太平洋戦争の開戦を迎えた。
開戦の日まで領事館に居た清水書記生は、実は陸軍参謀本部派遣の白浜少佐で開戦と共に軍服に着換えてから領事館から出て行った。あとは大川周明塾出身の橋爪、友田という二人に館務補助員と
タイ人スタッフだけが残った。
開戦と同時に軍に代わってチェンマイ空港の拡張を命ぜられたので、私は県知事に依頼して大勢の農民を集めて人海戦術で突貫工事を行った。
当時は重機械がなかったのでテニスコート用の石のローラーを人力で引っ張り滑走路を固めた。
そして翌1942年3月、ビルマ(現ミャンマー)作戦協力のため集結した航空第64戦隊(加藤 隼戦闘隊)を迎えた。 チェンマイで勤務中のある日未明、警察署長の来訪で起こされた。
その前夜、同地に駐在していた日本の憲兵が同地の名士4名を逮捕し、日本軍の兵営に連れ込んだのは如何なる理由か、とのことであった。
署長と共に軍の駐屯地に行ってみると華僑系の大物名士(全員タイ国籍に帰化済)が連行されて来ていた。理由は中華民国政府に抗日資金を送っているとのことであった。
この理由は言いがかりのようで、実は金銭の寄付を求めるのが本音のように思われた。しかも、慶兵の責任者は将校でなく曹長(下士官)であった。
私はその曹長に「タイは同盟国で日本軍は平和進駐をさせて貰っている故、タイ人を逮捕できない」と言ったが、曹長は釈放しようとしない。
従って、私はバンコクの大使に打電し、大使からタイ派遣軍に連絡の上、軍司令官命令で釈放させた。しかし、この件は一部では私が軍をして逮捕させたとまで伝えられたこともあった。
その年の7月、日タイ同盟条約成立を祝賀するため広田 弘毅元首相を団長とする使節団が来タイしたので、私はバンコクに出張を命ぜられた。
バンコクの公使館は開戦直前に世界中で第十番目の大使館に昇格しており、事務総長格に内山 清総領事が居られた。私はこの機に同総領事に帰国の希望を表明した。
通常外務省では、留学生は三年で任官すると一応本省に帰ることになっており、同期の仲間も殆ど帰国していた。しかし、内山総領事は「今、帰国すると兵隊にとられるぞ」と言われたので帰国を諦めることにした。
そして同総領事の媒酌で同年8月、当時バンコクに居た台湾拓殖会社バンコク支店長金子 豊治(元ラングーン)の次女 光枝と結婚した。
1943年4月、私はバンコクの大使館に転勤を命ぜられ、情報部に配属されたが、併せて坪上 貞二大使の通訳官も兼務させられた。
情報部の任務としてはタイ要人の動向を見張ると共に同盟の趣旨に基づき、タイのマスコミを監視、指導することであった。
この頃、タイ政府の指導者は表では同盟国として日本軍に協力しながら裏では「自由タイ運動」を通じて連合国に内通していた。その最高指導者は、時の摂政プリーディ・パノムヨンであった。
私はプリーディの腹心で「自由タイ」の中心人物であったルアン・スパラチャーサイ内相(海軍大佐)に近づき、この人の案内で夜間しばしばメナム河岸にあった摂政邸を裏口から訪問しては、
両国の将来を語り合い、その内容を対しに報告していた。
1945年に入り、戦局は日本にとって厳しくなり在外に駐在する邦人は皆帰国を希望していた。たまたま中立国を通じ、交戦国間で双方の捕虜に慰問品を送る話が成立し、この任務を果たすため
航行の安全を約束された阿波丸が来航した。
この船の帰路には帰国を待っていた大勢の人達が殺到した。大使館では家族同伴者を優先的に帰国させることになった。
しかし、私だけはタイ語の要員として残留を要求され、ただし家族だけは帰してよいと言われたが、妻光枝は私が残るなら自分も帰国しないと言って、大使館の提案を断った。
これが生死の分かれ目となったのである。阿波丸は協定に違反してシンガポールで日本側の軍需物資である生ゴムなどを積み込んでいたため、南支那海でアメリカの潜水艦によって撃沈され、
一人を残し2,000人余りが一挙に生命を奪われた。
1945年(昭和20年)8月10日、日本政府は同盟通信社(戦後共同、時事通信社に分割)を通じ、連合国が発表した降伏条件を示すポツダム宣言を受諾する意向を伝えたが、このニュースを
タイの新聞は翌11日の朝刊で大々的に報道した。
これに対しタイ派遣軍参謀であった辻 政信大佐(後に国会議員)は「大使館の中に国賊がいる。機関銃を連れてきたから出せ」と言って飛び込んできた。
私は山本 熊一大使の前で参謀と対決し、「タイの内閣宣伝局に対して同盟通信社のニュースは無検閲で発表してよいと伝えてある」と答えた。
辻参謀は早速、南方総軍事司令部のあった南ヴェトナムのダラットに飛んだ。
翌日、前とは打って変わった態度で大使館を訪ね「戦争犯罪人にされる恐れがあるから大使館員にして欲しい」と申し出てきた。
大使館では、この申し出を受け付けることが出来なかったので、私が世話して僧侶に変身させ、他の従軍層と一緒にワット・リャップ寺に預けた。
彼はその後、陸路中国を経由して1950年に帰国し、「潜行三千里」という本を出し、一冊送ってくれた。
引き揚げ帰国
終戦と共に日本と各国との外交関係は断絶させられ、私たち大使館員は9月15日より大使公邸内及び、その付近の家屋内に軟禁させられた。
一方、3,000名余りの在留邦人は10月初め頃よりバンコク西郊バンブアトン村に造られた収容所に移送された。
この間、私は鶴見 清彦官補(後にジュネーブ国際機関大使)だけはタイ官憲や在留邦人との連絡のため外出を許可されていたのでバンブアトン収容所へも慰問を兼ねて何回か訪問した。
タイは食料に恵まれていたので戦時中は勿論、軟禁中も別に不自由は無かったが、バンブアトン収容所では食料の配給が行われていた。
この間に私はタイに進駐した連合国軍に呼び出されチェンマイに於ける日本慶兵の行動と辻参謀の行方について詰問されたが、拘留されることは無かった。
抑留生活は一年近く続いたが、翌1946年6月になって漸く引き揚げ船が配船されてきた。 6月15日、バンコク。クロントイ埠頭から連合軍の上陸用舟艇に分乗し、コ・シーチャン島沖に停泊していた辰日丸に乗り込んだ。
この船は3,000トンばかりの戦時標準型の貨物船で暑くて、狭く、しかも食事は粗末で、昨日までの生活とは雲泥の差であった。
そして入港予定の浦賀港を目前にしながら、同地にコレラ発生のため鹿児島に引き返し、上陸したのは7月3日であった私たち家族は2才を過ぎたばかりの長女清美を伴っている上、
妊娠中の光枝は9ヶ月に入っていたので、皆と別れて大阪で下車し泉南の郷里に落ち着いた。
帰郷して先ず感じたことは、ご飯の美味しいことであった。
戦時当時、外務省はその分身であった大東亜省、興亜院などを併せて7,500人の公務員を抱えていたが占領軍から1,500人に減員するよう勧告されていると聞かされた。
しかし、帰国報告のため単身で上京し、岳父金子家に落ち着いた東京は、戦時中に何回もの爆撃をうけて焼け野原と化し、金子家も赤羽にあった家を焼きだされ練馬の借家にいた。
外務省も爆弾で潰され、芝田村町の日産館に移っていた。ニ回の人事課長室にはいると、寺岡 洪平課長より「君は今日から秘書官室に入ってくれ」と言われたので、直ちに三階の秘書官室に行った。
扉を開くや奥に座っていた西山 昭大臣秘書官(後にスイス、インドネシア大使)は「よう、待っていたぞ、君の席はそこだ」と言って、前の空いた机を指された。
そして私はその日から外務次官、寺崎 太郎の秘書として勤務することになった。 寺崎次官は戦前外務省アメリカ局長のとき,ワシントンにいた弟、英成一等書記官の間で、姪マリコの名を暗号に使い、
日米戦争回避のための電報を往復したことで有名である。
(大平洋の架け橋)そして、東条内閣成立するや、これに仕えることを好まず辞表を出して野に下っていたが、吉田 茂内閣に召されて外務省に復帰したのであった。
大臣は吉田首相兼務で、秘書官室は大臣室と次官室の間にあった。
大臣、次官ともに、戦時中は軍に抗して辛酸を嘗めた人だけに意志の強い反面、温情的な性格の持ち主だったので、勤務上嫌な思いをしたことはない。
しかし毎日、退庁するのは暗くなってからであった。これまでは食糧豊富なタイで、軟禁中といえでも家庭の使用人に恵まれ、自動車で走り回っていたのであるが、帰国した日本は食糧不足の上、
毎日超満員の電車に押し込まれて勤務せねばならず、正に180度の転換であった。
私は中学時代に鍛えたので寒さに平気であると前述したが、引き揚げ帰国した年の年末からの冬は、占領軍関係の施設以外はどこにも暖房はなく、しかも電車の窓は殆ど壊れたままで、寒風が吹き込み
放題、さすがに私もこの年だけは寒いと感じた。
又、妻光枝は、これまで料理はもとより、炊事などには手をつけたことが無かったが、帰国後は家事一切をせねばならない他、重いリュックを背負って食糧の買い出しにも行かねばならなかった。
しかも、帰国直後の8月に長男泰彦が生まれ、同10月より、二人の幼児を連れて上京し、金子家の四畳半一間に家族4人の生活を始めた。
しかし、この頃は戦争で家を失い、職を無くした人が多数いたので住居と職さえあれば幸福と思わねばならなかった。そして、人間は相当厳しい環境の変化にも、追随出来るものであると感じた。
1946年(昭和21年)1月、寺崎外務次官が自ら辞表を出して退官された事を機に、私は外務館吏研修所(現外務省研究所)研修員に命ぜられた。
この研修所は戦後吉田首相の命令で、外交官に新時代の外交に必要な教育を受けさせるため設置されたものであり、文京区大塚仲町の高台の上にあった、東方文化学院の建物が利用されていた。
所長は佐藤 尚武元駐ソ大使(後に参議院議長)で、私たちのクラス(8名)の指導官は成田 勝四郎(後に西独大使)であった。私たちは2月1日に入所し、7月31日に研修を終了した
。この間、2週間の研修旅行があり、名古屋、大阪での工場見学や、京都、奈良などの史跡を専門家の案内で見学して回った楽しい思い出がある。
研修所を終了すると私は調査局第一課勤務を命ぜられた。同庁には、外務省からも多数出向したが私が貰った辞令は「商工事務官 商工省へ出向ヲ命ズ 渉外部外課勤務」であった。
その後、商工省は貿易庁を合併して、通商産業省となり、私は通商局市場課勤務となった。この間、日本は占領軍によって貿易再開を認められることになり、1949年7月、タイからも商業省外国貿易局長
LUANG THAWIL を団長とする貿易使節団が来日し、占領軍との間に清算方式による貿易協定(輸出入3,000万米ドル)を締結した。
私は通産省を代表してこの使節団滞在中 FULL ATTENDし、その任務達成を援助した。この年6月、北朝鮮軍が南朝鮮に侵入して朝鮮戦争が勃発し、在日米軍も国連軍として同地へ出動した。
この頃より、占領軍の管理下であったが、日本の貿易は急激に伸びてきた。
商社への転身と再度来タイ
1950年より占領地は日本に対し、海外の主要都市に外交機関に代わる在外事務所設置を認め、また商社員の渡航も容認するようになった。
しかし、戦後の商社には充分な海外要員が育っていなかったため、多くの外務、通産省からの公務員が民間商社に入り海外に出て行った。
そして私も、通産省時代から多くの商社より海外要員として参加の勧誘があった。
なかでも、第一物産(後に合併して三井物産となる)新関 八洲太郎社長(戦時中三井物産バンコク支店長)と東洋綿花(現、株式会社トーメン)の香川 英史東京支店長(戦時中バンコク支店長、
後にトーメン社長)から強く入社を要請された。
私は香川さんとは、バンコク時代に近所に住み親しくさせて貰っていた上、
当時は三井、三菱などは占領軍命令で解体させられ、数多くの小会社に分かれていたためトーメンは1950年度の取り扱い額では
、全国商社中第一位であったこともあり、トーメンに入社することに決めた。
これより前、1949年4月より母校横浜専門が神奈川大学に昇格して以来、私は米田学長の依頼で、同学で商業英語の講師を頼まれ、毎週4時間担当していた。
従って、トーメンの入社は1951年4月からとして貰った。 東京での生活は誰もが耐え難きを耐え、というものであった。
私も四人の家族を抱え多少でも広い家を、と物色していたが、1948年初め文京区駒込林町に二間の部屋を間借りして移った。
ここは通勤に便利であったが、同居人がいたので1949年暮れに中野区沼袋の小さいながら一軒家に移った。